結婚しなくていい(2)

1つ前から続いてます。

とはいえ、結婚しなくてもいい話と経済力の問題は大きい。そしてこの国で女性は男性より賃金が低い。

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さまざまな要因があるだろうが、男女雇用機会均等法以前の時代の価値観が続いているということだ。結婚して男性が働き、女性は家庭を支える、というモデルを是としたままの格差だ。となると、専業主婦になれる程度の収入を持つ男性と結婚すれば生活の心配はない。女性は全員が単一の職業である「主婦」になれ、それが女の幸せだという社会が示している。

ついでに言うと昨日の「少子化対策は女性の就学と就労を制限しないと無理」とか言ってる人はたぶん高望みをしている女性のことを揶揄しているタイプな気がするが、実は女性はすでに制限されており、低収入なので、結婚しないと生活できない人が多い。となれば高収入の男性を望むのは当然なんである。だから逆に言うと高望みしない女性を増やすためには、女性の収入を男性と同等にする必要があるのではなかろうか。

収入さえ男性と同等なら、結婚することも結婚しないことも選ぶことができる。この選択の自由があるのとないのとでは話が全然違う。

ここまで書いてなにもかもが嫌になってしまったのだが、となると「結婚しなくてもいい」とは単純には言い切れず、現状は収入さえあれば結婚しなくてもいいという条件つきになり、頭を抱える。

結婚しなくていいって欺瞞じゃん! 私が恵まれてるから結婚しなくていいって言ってるだけだ! ちょっと収入があるから結婚しなくて済んでるんだ! あと一緒に暮らしている人がいた方がコスパ的にも緊急対応的にも絶対いいし、都会に住んでるから許される。1回結婚してるからプレッシャーも少ない。

しかしみんながちゃんと男性と同等の収入を得れば、そういう自由ができるということだ。少子化対策にだってなるよ。そして結婚なんてしたくなかったらしなくていいんだよ、ほんとだよ。自由をくれよ。

結婚しなくてもいい

この年齢になって強制的にこどもを産まない(産めない)ことなったのは気が楽だ、と書いた。ところで「結婚しなくても幸せになれる」という記事を見かけ、そりゃそうだろうと思う。結婚することが幸せという価値観よ!

しかし男女問わず「結婚はしたくないけどこどもは欲しい」と言う人はいるので、なんだろうなと考える。実は私も若い頃そう思っていたが、現実的に考えてパートナーがいない子育てはおそらく厳しいという結論になった。そもそもこどもが欲しいのはなぜ? と考えていくとよくない暗闇が広がっていそうでこわい。生物としての本能? 本当に? となる。同じことを言う男性については、おまえら妊娠出産育児どうするつもりかと聞きたい。

そもそもこどもが欲しいか欲しくないか、結婚が幸せかそうじゃないか、そんなのは人それぞれで他人が言うことではない。とはいえ人から言われると楽になる背景もあるので難しい。

ちなみに私の周りには素敵な夫婦が多く、結婚もいいものだと思う。しかしDVを受けて離婚した人間もいるので、結婚もまたいろいろだ。結婚していたことのある人間の言葉として他人行儀ですいません。これについてはそのうち。

ただし疫病や老後のことを考えるとたぶんパートナー、あるいは家族がいた方がいいんだろうな、とは思う。もちろんひとりでも生きていける社会が美しいとは思う。しかし家族やパートナーに恋愛は必要か?

そういえば見合い結婚というのは家庭内労働力と生殖のための社会的採用であって、女性の意志や権利は軽視されている。恋愛結婚の世界になっても価値観が残ったままだ。

少子化対策は女性の就学と就労を制限しないと無理」という意見を見かけたがそれはそうだろう。女性の就学と就労を制限せず少子化を改善することを目指しているのであって、それが文化的な生活というものだ。男女雇用機会均等法の改正施行からたかだか20年ちょいの世界はまだ厳しい。

あなたの好きなラーメンは?

突然好きなラーメンの話をしますが、あなたはどんなラーメンが好きですか? ラーメンってお店によって味が全然違うじゃないですか。場合によってはラーメンとはなにか、スープの中に小麦かんすい麺が入ってればラーメンなのか、みたいなところに立ち尽くしたりしませんか。ラーメンとつけ麺を同じ箱に入れていいのか、二郎系をどうするのか、中華系刀削麺はラーメンですか? 細麺太麺平打麺にワンタンとか、澄んだスープに麺だけが入っててもラーメンですか!?

私はラーメンが好きなんですけど、ただラーメンが好きと言う人のことはあまり信用してなくて一体どんなラーメンが好きなんですか、あなたのベストラーメンはどこですか、と問い詰めることにしています。その上で大体ラーメンとはなにかと疑問に思っている話と、それらすべてを内包してラーメンだとするなら、大体1番好きなお店はその時1番よく食べているラーメン(つまり近所のラーメン)か、あるいはなんらかの思い入れのあるラーメンであって、本当に味で選んでますか!? と問いかけます。または醤油と味噌と魚介とつけ麺のベストを聞き、その中で一番好きなラーメンが知りたいんです。気持ち悪いな!? しかし1番ってそういうものだと思うの。そしてラーメンってそういうところのある食べ物だと思うの。だって家系と二郎は違う食べ物でしょ!? 醤油を食べたい日と味噌を食べたい日全然違うもん! でもまさに人それぞれってそういうことだと思うんだよね。こういう食べ物ってたぶんカレーが同じなのかなーって。私はカレーレベル低いけど!

そんなわけで、近所のお気に入りのラーメン屋さんが最近ちょっと大変そうで心配。なにも頼まれていませんがお伝えしておくと「うえ原」(https://tabelog.com/tokyo/A1322/A132204/13234912/)といいます。淡麗がおすすめです。余談ですが近所の名店「べんてん」(https://tabelog.com/tokyo/A1322/A132204/13200351/)は6/28から営業再開なこともお伝えしておきます。私はダイエット中ですので、ラーメンを控えており割と辛い日々です。

 

あたりまえのことを書く

友人の作家が言っていたのだが、エッセイとは当たり前のことを書くのが大事らしい。少なくとも自分が当たり前だと思っていることを書く、ということだが、それにより共感されたり反発されたりするものだそうだ。当たり前とは人それぞれだし、自分がちょっとずれていることを自覚しつつ当たり前だと思っていることを書く。ま、そりゃそうだなと思う。人の文章を読んで自分の考えがまとまったり、気づいたりすることはよくある。他の誰かが言葉にすることで、自分も楽になったりする。そういうのってきっとすごく大事だ。

とはいえ信じているものによって当たり前は変わってくるので、そこのバランスはとても難しい。価値観は人それぞれなので、自分にやさしい価値観にどうしても擦り寄ってしまうし、似たような価値観で集まりがちなので、気をつけたい。あとやさしくされると人は簡単になびく。

宗教活動とか政治活動とかマルチ活動とか陰謀論活動(?)とかって、結局仲間作りの側面があって、最終的にはコミュニケーションの問題なんだろうなあ、と思うことがある。ネットでのことはよくわからないけれど、以前宗教の人の訪問を受けた時に、その人たちがふたりで励まし合っていたりして、大人になっていいおともだちできました!? よかったですね!? という感想を抱いたことがある。その視点で見ると駅前でそういう活動をしている人たちは、サークル活動をやってるんだと思うので、悪いものでもない気がする。

でもある種の宗教や活動は洗脳に他ならず、しかし自分が洗脳を受けてない可能性なんてどこにもないし、難しいよなあ。人は簡単に価値観が左右されるのでね。とはいえ私は私が当たり前だなと思うことしか書けないしできないので、そうやって思想は純化されていくんだろうなあと思う。

お気づきでしょうがとにかく陰謀論に怯えている日々です。練馬区早くワクチンクーポン送ってくれないかなー。

仲西環のこと

仲西環のことを急に思い出したとツイートしたら、仲西さんのことを書いてくれとお仕事の先輩に言われた。出会ったのはもう20年以上前のことだ。

その頃、私は沖縄にいた。ゲーム雑誌編集部をやめて、どっかに行きたくて沖縄に行った。20代前半だ。あの頃の私はまあひどいもので、貯金も大してなかった。来沖して1ヶ月ほどで仕事を見つけた。メディア系の学校での講師見習いだ。ちょうど開校して1年目、経営母体を東京に持つその沖縄校の声優学科の生徒に仲西環がいた。仲西は私と同い年(同学年)だった。学校といっても人数が少なく信じられないくらいにアットホームだった。そして沖縄はとにかく飲む文化だった。生徒たちの中で仲西はひとり少しだけ年上だったのと、同い年だったこともあってよく飲んだ。沖縄のことを知らない私にいろいろなことを教えてくれた。逆に東京のことをよく話した気がする。

沖縄の訛りはなかなか標準語にならず、生徒たちはみんな苦労していた。

1年が経って、仲西と他数人は東京に行った。私はまだ沖縄にいた。仲西たちはたぶんルームシェアをして女の子たちだけで暮らしていたと思う。

3年ほど沖縄で暮らしたあと、私は東京に戻り、ゲーム雑誌ライターに復帰し『メモリーズオフ』というタイトルの取材で仲西と再会した。ゲームに登場する女の子を演じる声優に水樹奈々池澤春菜、そして仲西環だった。ふたりとも下っ端で私は取材だったので、すみっこでちょっとはしゃいでから、その日は連絡先だけを交換して終わった。そのあと一度だけ飲んだ。それからは会ってない。ただ活躍の様子をしばらくは気にしていた。そして昨年訃報があった。

20代の1年間少し親しくしていた友だちで、それ以上でもそれ以下でもない。仲西の訃報そのものも悲しかったが、あんな風に短い間でも親しくしていた友人が、もしかしたらもうたくさん死んでいるのかもしれないと気づかされたのも仲西の訃報からだった。たまたま仲西が少し近い業界で売名商売をしていたから訃報を知った。私はあの頃の友人の今をほとんど知らなかった。

古い友人なんてそんなものかもしれないけれど、不義理ばかりをしている結果だ。旅行ができるようになったら沖縄に行こう。

思い出すのは沖縄の青い空、宜野湾公園のビーチパーティでダラダラ飲んだ日のこと。私あの日サンダルですっころんだ。なにを話したかも覚えていないけど、とにかくゲラゲラ笑った。楽しかったな。

選ぶ選ばれる 6/21

なんとなくいつも自分は選別される側だと思っていたのだが、気がついたらどちらかというと選別する側になっていた。これもまた年寄りになった話である。

もちろん私個人は仕事の場では相変わらず選別されている。その上で大して仕事の能力がないからなかなか厳しい。これは自己評価が低いとかいう話ではなく純然たる事実なので、横においといて、私個人の話ではなく会社の話になると、話は違う。私は一応会社というチームを背負っているため、チームの存続を考えると必要なのはスタッフを選別する能力が必要だ。しかし選ぶこと選ばないことで相手の人生は変わってくる。自分が選ばれたり選ばれなかったりすることよりこの責任は重いなとよく思う。M-1の審査員が悩むみたいなもんである(大袈裟)。

とはいえ深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いているのだとはよく言ったもので、選ばれる側もこちらを選んでいる。選ばれて選別しているかと思うとさらに責任が増す。選んだからにはなんとかしなければならない。

とはいえ世の中の選ぶ側はどうやって選んでいるのだろう。選ばれる側として考えるとこういう業界なので実績がものを言う。うちは小さな所帯なので、実を言うとそれほど迷うことはない。選んだといってもそこまでの弊社における実績や私との関係値のみが重視される。どちらかというと選んでもらう側面のが強い気がする。それでもその一段階前では選ばねばならない局面がある。

しかし100人採用とかすることになったらどうすんじゃと思う。あるいは100人採用されることになったらどう選ばれればいいのか。となると学歴とか職歴で選別するしかないのか。あるいはポートフォリオや試験か。大きな会社に勤めてなくてよかった。選ぶの絶対きつい。

とはいえ人生とは選んだり選ばれたりの連続で、なんでこんな決めなきゃいけないことがたくさんあるんだと頭を抱える。今日のごはんほんとどうしましょう。

普通という理想 6/20

もはや私は自分があまり普通ではないことを知っているが、普通とは永遠の課題である。そもそも普通とはなんなのかと考えると、世の中に普通なんてものはなく、普通という理想があるだけではなかろうか。

国勢調査による平均値がどこにあるのかは知らないが、その平均値を普通とするのならばさまざまな数値がすべて普通……というか平均値な人なんていないだろうし、私の予想では人々はその平均値よりちょっと上を普通としている気がする。そんなの無理に決まっている。だって平均点だもの。

なぜ平均点を求めてしまうのかというと、それがきっと幸せに見えるからだろう。平均点よりちょっと上さえとっておけば大丈夫というような安心だ。あるいは線路の上を歩いていれば大きく道に迷うことはなかろうという安心か。さらに行政は大多数に向けて行われるものだから、平均点さえとっておけばそれほどひどい目にはあわないはずだという思い込みかもしれない。だとしたら普通を求めるのは間違っていない。だが普通を押しつけるのは平均点を押しつけるようなもので、平均より高かったり低かったりするのが本当は【普通】だろう。

よく若人が自己紹介で「ちょっと変わってると言われます」というのはなんかひとつだけ高得点がありますよというアピールなのかもしれない。しかし平均点とのギャップに悩まされたりする。出る杭は打たれるしね。

ともあれ別の科目で高得点をとっていても平均点をよしとされるなんてつまらなくしんどい世界だな、とは思う。とはいえ世界がそこに照準をあわせて作られているのだとしたら、目指すのは間違っていない。でも平均点が自分にとって幸せかどうかは非常に難しい話だ。

しかし選別される時に平均点はあまり望まれない。なにかひとつは高得点を求められる。矛盾している。すべてに平均点以上を求められても数学が得意だったら国語が苦手だったりするだろと私は思う。生きづらいな!