『日本文学の旅』

 再開後初めての観劇は『日本文学の旅』(公式サイト)でした。A.B.C-Zの橋本良亮くんと新納慎也さん主演、上演台本/演出は鈴木勝秀さんの朗読劇です。毎度のことながらネタバレとか配慮してないのでよろしくな。

 このコロナ禍の中で発表も発売もあって、心がなかなか動かずにいたんですけど、エイヤっとチケットを取っていってきました。当日まで本当にやるのかどうか不安だったんですけど、会場のよみうり大手町ホールは、徹底したソーシャルディスタンスで、対策されておりました。靴裏の消毒したのは初めてだったな。

 さて演劇とは時代を映すものだと言いますが、このお芝居もまさにそうで、今見ることに意味がある、そういう舞台でした。

 物語は司書(橋本)と読書家(新納)の会話と日本文学の朗読で進んでいきます。(※公式サイトに司書と読書家って書いてあるけど実際はなんかふんわり違った設定だった気がしますが!)『古事記』から始まって『源氏物語』(与謝野晶子版)、『枕草子』、『万葉集』、そして『平家物語』……とにかくみんなが知ってるというか授業で習った日本文学がいっぱい。

 ふたりが『万葉集』というか、百人一首を読み上げるあたりから『平家物語』の流れで、これらが声を出して読まれるための文章だ、ということが提示されるんですね。『平家物語』なんてまさにそうですよね。

 この口に出して読むための文章というものに関しては、私が去年同じくよみうり大手町ホールで観た鈴勝さんが作演出だった『BLANK! 〜近松門左衛門 空白の十年〜』の時にものすごく感銘を受けたんですよ。

劇中で「この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づゝに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ」を近松がやるんですけど、あまりに美しく素晴らしいセリフに胸が苦しくなってしまった。今まで名文だなとは思っていたんですけど、こんなにすごいセリフだとは。セリフとして書かれてるから当たり前なんですけど。このセリフを聞けただけで価値がある舞台だった。

7-9月の観劇メモ - しあわせなじかん、とか

  ぐだぐだ言うなら朗読劇が経験上あんまり好きじゃないんですよね。あくまで比較級の話なんですけど、どうしてかなあって考えたときに、私はやっぱり舞台で身体を見たいんだと思うんですよ。いや朗読も身体ではあるのですが、歌ったり踊ったり動いたりを観るのが好きなので。そんなことを考えながら以前の舞台も思い出しつつ見ている私は、前回同様朗読ということで明示される文体そのものに潜む身体性というものにため息をつくわけです。『平家物語』のあとに当然『曽根崎心中』もやってくれます。さいっこう。

 古典文学っておそらく同時代のほとんどの人にとって識字の話から考えても「読む」ものじゃなくて「聞く」ものだった。それは日本文学に限った話じゃなく、多分海外でもそうでしょう。少なくとも私は「読」みすぎていて、つい忘れてしまう。声に出して読むのではなく、目で読んでしまう。そして目で読んだときに心地のよい文章と、耳で聞いたとき、口に出したときに心地のよい文章は違う。小説と脚本の違いとでもいいましょうか、そういうものを古典文学は朗読されたときにものすごい勢いでばーんと見せつけてくる。劇中で江戸時代をざっくり俳諧でまとめてるのも声に出して読む(そして我々は聞く)ためだったのかなあと。江戸時代の文学は識字率も高くすでに割と「目で読む」ものが多いしね。

 とはいえこうなっちゃうか~と思いながら観てたのは、役者同士が距離を取る舞台上のソーシャルディスタンスの様子とかで。あとは『風姿花伝』の役者心得というか、非常に残酷なアイドルがアイドルたらしめる理由をアイドルである橋本くんが、自分をアンサンブル出身ですと言って憚らない新納さんに読み聞かせて、新納さんがショックを受ける、メタな要素にちょっと違和感を感じたりしてたんですが!

 近代文学パートから怒濤! 怒濤です! 一気に来た!!!! 同時代性!!! そしてメタは伏線だった~!

 まず夏目漱石をみんなが知っている文学なんかでは終わらせない! 朗読されるのは『私の個人主義』!! 夏目漱石の講演会の書き起こしです。紙の上に印刷された文章ではなく、聞かれるための文章が朗読される。その上セレクトはこのあたりのパート!

ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように云いふらしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙しなければ国家が亡びるような事を唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿気たはずはけっしてありようがないのです。事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります。

夏目漱石 『私の個人主義』(青空文庫)

 や、やられた~! そしてそこからなぜか違和感さえある正岡子規の話に行くんですが(ここまで作家同士の人間関係とかほとんど触れてきてない)、それもこれを読みたかったからですよね~! と読まれるのがここ!

正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。

夏目漱石 『正岡子規』(青空文庫)

 ウグッってなってしまった。これソーシャルディスタンスの話じゃん! そして女流作家与謝野晶子の話から、女流って言い草も失礼よね、でも男性社会だったから、というところで冒頭に戻して日本文学最高の物語は『源氏物語』で女性が書いてるし! 現代語訳の与謝野晶子最高だし! と戻しつつ現代の女性差別の問題を織り交ぜて、さあ与謝野晶子なにを読む!? てとこで私斜に構えて「おいおい『君死にたまふことなかれ』とか来ちゃうのか~」ってなってたら読まれるのが『みだれ髪』。ギャフン。完全にギャフンってなったね。最高じゃん。

 そんでさ~!!!!! 『蟹工船』が始まるんですよ!

「おい地獄さ行ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。

小林多喜二 『蟹工船』(青空文庫)

 一言目の芝居!! セリフ!! 鳥肌。

 そしてここから焚書の話になって、言論統制の話になって、このへんからもう泣いちゃったのでよく覚えてない。私は『蟹工船』のことを思う時、戦前帝国劇場でこの演目が演じられたことをきっかけに多喜二が特高に目をつけられたということをどうしても思い出してしまうのです。

 そして美しくアヴェマリアが歌われ―――。

 今観るべき芝居であった。よかった。

 そういえば途中で坪内逍遥の『ロミオとジュリエット』差し込まれたのもおもしろかった。確か『R&J』でも鈴勝さん引用されていた。作演出家を追う楽しみってやつですね。あと『源氏物語』で読まれたのが『若紫』で、源氏の君な橋本くんに心の中でキャアキャアしたりしました。若紫の源氏の君完全に犯罪者だけど。なぜあそこを。いや若いハンサムに読ませるならあそこか。そうだ、あそこだな。『平家物語』は『敦盛』でした。橋本くんの舞台はいい舞台が多いなあ。

 ところでこの文章は一切メモを取らず本当に記憶だけで書いているので、そりゃ私はちょっと頭がおかしいし、お芝居観たあとにグッタリするに決まっているし、間違いあったらごめんなさい。(※追記:Twitterなどによるとラストに太宰読まれたみたいなんですけど、マジで記憶にないので、私が本当に『蟹工船』で吹っ飛んでる……。ええええ? それめちゃくちゃ観たいじゃん……。逆にほぼラストシーンなのにここまで感想書いておいて吹っ飛んでまったく覚えてないのやばい)

 しかしこないだの河合くんの舞台もそうだったけど、朗読された作品のことわかんないと全然つまんない気がするなこれな……。いやそもそもそうなると本当にマジで考えずに感じるのが圧倒的に正しい。

 考えるな、感じろ。Don't think! Feel!

 まあ観た人が好きに解釈すればいいだけなんですけど。観た舞台の感想に意味などないと言っていたのは誰だったか。それでも私は書いてしまうよ、私の感じたことを考えたことを。君はどうだい?