あなたの好きなラーメンは?

突然好きなラーメンの話をしますが、あなたはどんなラーメンが好きですか? ラーメンってお店によって味が全然違うじゃないですか。場合によってはラーメンとはなにか、スープの中に小麦かんすい麺が入ってればラーメンなのか、みたいなところに立ち尽くしたりしませんか。ラーメンとつけ麺を同じ箱に入れていいのか、二郎系をどうするのか、中華系刀削麺はラーメンですか? 細麺太麺平打麺にワンタンとか、澄んだスープに麺だけが入っててもラーメンですか!?

私はラーメンが好きなんですけど、ただラーメンが好きと言う人のことはあまり信用してなくて一体どんなラーメンが好きなんですか、あなたのベストラーメンはどこですか、と問い詰めることにしています。その上で大体ラーメンとはなにかと疑問に思っている話と、それらすべてを内包してラーメンだとするなら、大体1番好きなお店はその時1番よく食べているラーメン(つまり近所のラーメン)か、あるいはなんらかの思い入れのあるラーメンであって、本当に味で選んでますか!? と問いかけます。または醤油と味噌と魚介とつけ麺のベストを聞き、その中で一番好きなラーメンが知りたいんです。気持ち悪いな!? しかし1番ってそういうものだと思うの。そしてラーメンってそういうところのある食べ物だと思うの。だって家系と二郎は違う食べ物でしょ!? 醤油を食べたい日と味噌を食べたい日全然違うもん! でもまさに人それぞれってそういうことだと思うんだよね。こういう食べ物ってたぶんカレーが同じなのかなーって。私はカレーレベル低いけど!

そんなわけで、近所のお気に入りのラーメン屋さんが最近ちょっと大変そうで心配。なにも頼まれていませんがお伝えしておくと「うえ原」(https://tabelog.com/tokyo/A1322/A132204/13234912/)といいます。淡麗がおすすめです。余談ですが近所の名店「べんてん」(https://tabelog.com/tokyo/A1322/A132204/13200351/)は6/28から営業再開なこともお伝えしておきます。私はダイエット中ですので、ラーメンを控えており割と辛い日々です。

 

あたりまえのことを書く

友人の作家が言っていたのだが、エッセイとは当たり前のことを書くのが大事らしい。少なくとも自分が当たり前だと思っていることを書く、ということだが、それにより共感されたり反発されたりするものだそうだ。当たり前とは人それぞれだし、自分がちょっとずれていることを自覚しつつ当たり前だと思っていることを書く。ま、そりゃそうだなと思う。人の文章を読んで自分の考えがまとまったり、気づいたりすることはよくある。他の誰かが言葉にすることで、自分も楽になったりする。そういうのってきっとすごく大事だ。

とはいえ信じているものによって当たり前は変わってくるので、そこのバランスはとても難しい。価値観は人それぞれなので、自分にやさしい価値観にどうしても擦り寄ってしまうし、似たような価値観で集まりがちなので、気をつけたい。あとやさしくされると人は簡単になびく。

宗教活動とか政治活動とかマルチ活動とか陰謀論活動(?)とかって、結局仲間作りの側面があって、最終的にはコミュニケーションの問題なんだろうなあ、と思うことがある。ネットでのことはよくわからないけれど、以前宗教の人の訪問を受けた時に、その人たちがふたりで励まし合っていたりして、大人になっていいおともだちできました!? よかったですね!? という感想を抱いたことがある。その視点で見ると駅前でそういう活動をしている人たちは、サークル活動をやってるんだと思うので、悪いものでもない気がする。

でもある種の宗教や活動は洗脳に他ならず、しかし自分が洗脳を受けてない可能性なんてどこにもないし、難しいよなあ。人は簡単に価値観が左右されるのでね。とはいえ私は私が当たり前だなと思うことしか書けないしできないので、そうやって思想は純化されていくんだろうなあと思う。

お気づきでしょうがとにかく陰謀論に怯えている日々です。練馬区早くワクチンクーポン送ってくれないかなー。

仲西環のこと

仲西環のことを急に思い出したとツイートしたら、仲西さんのことを書いてくれとお仕事の先輩に言われた。出会ったのはもう20年以上前のことだ。

その頃、私は沖縄にいた。ゲーム雑誌編集部をやめて、どっかに行きたくて沖縄に行った。20代前半だ。あの頃の私はまあひどいもので、貯金も大してなかった。来沖して1ヶ月ほどで仕事を見つけた。メディア系の学校での講師見習いだ。ちょうど開校して1年目、経営母体を東京に持つその沖縄校の声優学科の生徒に仲西環がいた。仲西は私と同い年(同学年)だった。学校といっても人数が少なく信じられないくらいにアットホームだった。そして沖縄はとにかく飲む文化だった。生徒たちの中で仲西はひとり少しだけ年上だったのと、同い年だったこともあってよく飲んだ。沖縄のことを知らない私にいろいろなことを教えてくれた。逆に東京のことをよく話した気がする。

沖縄の訛りはなかなか標準語にならず、生徒たちはみんな苦労していた。

1年が経って、仲西と他数人は東京に行った。私はまだ沖縄にいた。仲西たちはたぶんルームシェアをして女の子たちだけで暮らしていたと思う。

3年ほど沖縄で暮らしたあと、私は東京に戻り、ゲーム雑誌ライターに復帰し『メモリーズオフ』というタイトルの取材で仲西と再会した。ゲームに登場する女の子を演じる声優に水樹奈々池澤春菜、そして仲西環だった。ふたりとも下っ端で私は取材だったので、すみっこでちょっとはしゃいでから、その日は連絡先だけを交換して終わった。そのあと一度だけ飲んだ。それからは会ってない。ただ活躍の様子をしばらくは気にしていた。そして昨年訃報があった。

20代の1年間少し親しくしていた友だちで、それ以上でもそれ以下でもない。仲西の訃報そのものも悲しかったが、あんな風に短い間でも親しくしていた友人が、もしかしたらもうたくさん死んでいるのかもしれないと気づかされたのも仲西の訃報からだった。たまたま仲西が少し近い業界で売名商売をしていたから訃報を知った。私はあの頃の友人の今をほとんど知らなかった。

古い友人なんてそんなものかもしれないけれど、不義理ばかりをしている結果だ。旅行ができるようになったら沖縄に行こう。

思い出すのは沖縄の青い空、宜野湾公園のビーチパーティでダラダラ飲んだ日のこと。私あの日サンダルですっころんだ。なにを話したかも覚えていないけど、とにかくゲラゲラ笑った。楽しかったな。

選ぶ選ばれる 6/21

なんとなくいつも自分は選別される側だと思っていたのだが、気がついたらどちらかというと選別する側になっていた。これもまた年寄りになった話である。

もちろん私個人は仕事の場では相変わらず選別されている。その上で大して仕事の能力がないからなかなか厳しい。これは自己評価が低いとかいう話ではなく純然たる事実なので、横においといて、私個人の話ではなく会社の話になると、話は違う。私は一応会社というチームを背負っているため、チームの存続を考えると必要なのはスタッフを選別する能力が必要だ。しかし選ぶこと選ばないことで相手の人生は変わってくる。自分が選ばれたり選ばれなかったりすることよりこの責任は重いなとよく思う。M-1の審査員が悩むみたいなもんである(大袈裟)。

とはいえ深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いているのだとはよく言ったもので、選ばれる側もこちらを選んでいる。選ばれて選別しているかと思うとさらに責任が増す。選んだからにはなんとかしなければならない。

とはいえ世の中の選ぶ側はどうやって選んでいるのだろう。選ばれる側として考えるとこういう業界なので実績がものを言う。うちは小さな所帯なので、実を言うとそれほど迷うことはない。選んだといってもそこまでの弊社における実績や私との関係値のみが重視される。どちらかというと選んでもらう側面のが強い気がする。それでもその一段階前では選ばねばならない局面がある。

しかし100人採用とかすることになったらどうすんじゃと思う。あるいは100人採用されることになったらどう選ばれればいいのか。となると学歴とか職歴で選別するしかないのか。あるいはポートフォリオや試験か。大きな会社に勤めてなくてよかった。選ぶの絶対きつい。

とはいえ人生とは選んだり選ばれたりの連続で、なんでこんな決めなきゃいけないことがたくさんあるんだと頭を抱える。今日のごはんほんとどうしましょう。

普通という理想 6/20

もはや私は自分があまり普通ではないことを知っているが、普通とは永遠の課題である。そもそも普通とはなんなのかと考えると、世の中に普通なんてものはなく、普通という理想があるだけではなかろうか。

国勢調査による平均値がどこにあるのかは知らないが、その平均値を普通とするのならばさまざまな数値がすべて普通……というか平均値な人なんていないだろうし、私の予想では人々はその平均値よりちょっと上を普通としている気がする。そんなの無理に決まっている。だって平均点だもの。

なぜ平均点を求めてしまうのかというと、それがきっと幸せに見えるからだろう。平均点よりちょっと上さえとっておけば大丈夫というような安心だ。あるいは線路の上を歩いていれば大きく道に迷うことはなかろうという安心か。さらに行政は大多数に向けて行われるものだから、平均点さえとっておけばそれほどひどい目にはあわないはずだという思い込みかもしれない。だとしたら普通を求めるのは間違っていない。だが普通を押しつけるのは平均点を押しつけるようなもので、平均より高かったり低かったりするのが本当は【普通】だろう。

よく若人が自己紹介で「ちょっと変わってると言われます」というのはなんかひとつだけ高得点がありますよというアピールなのかもしれない。しかし平均点とのギャップに悩まされたりする。出る杭は打たれるしね。

ともあれ別の科目で高得点をとっていても平均点をよしとされるなんてつまらなくしんどい世界だな、とは思う。とはいえ世界がそこに照準をあわせて作られているのだとしたら、目指すのは間違っていない。でも平均点が自分にとって幸せかどうかは非常に難しい話だ。

しかし選別される時に平均点はあまり望まれない。なにかひとつは高得点を求められる。矛盾している。すべてに平均点以上を求められても数学が得意だったら国語が苦手だったりするだろと私は思う。生きづらいな!

肩書き問題 6/19

著名人の肩書きに怒っている人をネットで見かけたのだが、肩書きって自分でつける場合もあるけれど、案外TPOで変わってくるものだから難しい。

たとえば私はTwitterに「ライターと名乗りたい大体小説家だが株式会社チクタク代表取締役」と書いているが、まさにこれが肩書きの難しさだろう。私はライターと名乗りたいのだ。しかし現在いわゆる媒体ライター仕事はそれほどやっておらず、時々ゲームシナリオ、たまに評論、そして小説を書いている。このライターとか小説家というのも難しく、バリエーションとしては物書き、文筆業、売文業、評論家などの肩書きになったりもするし、その前にジャンルがつくことも多い。シナリオとかゲームとか雑誌とかウェブである。シナリオになるとさらにゲームとかドラマとか映画なんてのもつく。あるいは脚本家か。ちなみにこれらの最高峰は作家だと思うのだが、なんだか大仰すぎて恥ずかしい。しかし先日編集さんから肩書きを「作家」としていただけませんかと言われ、断る理由もないので飲み込んだ。さらにいうなら私が主な稼ぎを得ているのは社長業であり、講師業だろう。実際私がなにやってるんだがよくわかっていない人もいると思う。ゲームシナリオを書いてたまに小説も書く零細プロダクション社長です。プロダクションも芸能じゃなくてシナリオプロダクションである。役者もいます。

これ実は私に執筆の才能があまりないことが影響している気がする。いや、執筆の才能がない(のは事実だが)というより、平均値よりたぶんコミュ力が高い。その結果社長となってしまったが、文字を書くことであれば大体ご相談に乗れますのでぜひ。

そういえば30代ごろ、打ち合わせで「先生って呼ばれるのやだー」という話をしたらうちの優秀な妹に「今の立場で先生って呼ばれたくない作家はめんどくさいから黙れ」と言われて落ち着いたことがあります。こないだの「作家」も多分おんなじだな、きっと。

エゴサーチ 6/18

皆さんエゴサしてますか。といっても、売名商売じゃないとなかなかエゴサはできないので、誰に呼びかけてるんだという話だが、私は割とエゴサをするタイプである。

その昔、まだTwitterなんてなかった頃、自分のことを検索するのは首を絞める行為だからやめろとよく言われていた。だがその頃からずっと検索している。自意識過剰と言われればそれまでだが、感想を見るのは制作者、売名商売の誠意でもあると思っている。もちろん悪いことを言われていればへこむ。反省する。なんとかしようと思う。ほめられていればうれしい。もっとも私程度の知名度だと、大したことは書かれていない。とはいえ、ネットの評判を見て書けなくなって廃業した同業者も知っている。しかし今やネットでなにを言われようと書き続ける人、表現する人たちしか生き残っておらず、あの頃からエゴサしてたのは間違ってなかったのではないか。夏目漱石芥川龍之介にあてた手紙の中で『群衆は眼中に置かない方が身体の薬です』とか言ってるくらいなので制作とは多分そういうものなのだろう。とはいえ、読者やユーザーや視聴者の反応を見るのはすごく大事だとは思う。

しかしなぜ作者自身が見てないと思ってひどい発言をしている人がいるのかあの頃からずっとわからないままだ。それは意見や感想ではなく誹謗中傷だ。ネットでの誹謗中傷に本当に傷ついて、自らの命を断ってしまうような人が現れてなお、そういう世界は続いている。この話をインターネットで100回くらいしている気がするが、本当に不思議でならない。

ところでエゴサーチすると最近は「金巻きあげやがって!」というような怨嗟がたくさん引っかかるのがつらい。せめて助詞を省略せず「金を巻き上げる」と書いてくれれば引っかからないのに……となるが、怨嗟なのでそりゃ助詞は省略される。「お金を巻き上げると書いて金巻です」という私の持ちネタがつらい世界ですね。