【2020/05/12】空と君とのあいだに

 獣医さんで「おかあさん」と呼ばれた。私は猫たちを息子だと思ったことなどないし、猫たちも私をおかあさんだと思ったことはない気がする。じゃあ我々の関係はなんだ、飼い主と飼い猫、それは主従かと聞かれたらそうでもない気がする。

 クレカを無くした。最後の支払いは昨日の獣医さん。朝クロを抗がん剤投与のため獣医さんに預けて、そのまま買い出しに行って、そこで無くなっていることに気がついた。こんなところにカードをいれていると落としたりするかもな、とぼんやり思った記憶があるようなないような、しかしそれをどこで思ったのか思い出せない。帰宅しても見つからない。以前不注意で猫が脱走してしまったときに、あるいは他の猫が危篤のときに、部下に人としての能力が落ちていると言われたことがあって、まさに今またそれを繰り返しているのか。あのときもそのときも似たようなことがあった。人としての能力が落ちている。獣医さんにも一応問い合わせたけど、ともあれクロを連れて行ったキャリーのポケットに入っている可能性がある(そしてさすがにそこまでの確認は獣医さんにお願いできない)ので、カードを止めるのはちょっと我慢する。かなり落ち込む。

 だがしかし。

 その後夕方、クロを迎えに行ってキャリーのポケットを見たけどクレカは見つからなかった。がっかりしながら帰宅しようとして、自分のクレカを拾った。獣医の行き帰りクロがいるとタクシーに乗るのだが、帰りにタクシーに乗ろうと道を渡ったら、朝タクシー降りたあたりで車道に落ちていた。およそ6時間後に車に轢かれた跡のあるクレカ自分で拾うの、運が首の皮一枚で繋がっている気がする。あとはクロの抗がん剤がうまく効いてくれれば。

 検察庁法改正案まわりの話で「芸能人はどうせ広告代理店からお金をもらって書いてるのに」って当然のことのように書いている古い知り合いがいて、ビックリしてしまった。だとすると彼が信じることと逆側にいる私は広告代理店の政治戦略に乗せられている愚か者か。なにが正しいのか全然わからないな。しかし我々関東大震災におけるデマ拡散などを歴史として知っていて、その上でどちらが正しいとしてもこれか、となる。そして売名商売であるところの私が発言することが正しいのかもわからないんだけど、発言したことで仕事に支障があるのだとしたら、それは厳しい世の中だ。そういう話がいっぱいTwitterに流れてる。

 とはいえ創作者は政治的発言をするべきなのかどうかという話はずっとあって、3月に演劇がどんどん中止されている中、紀伊國屋ホール紀伊國屋サザンシアターはギリギリまで続けていて、その演目がつかこうへいと井上ひさしだったから笑っちゃったんですよね。つかこうへいは慰安婦問題、そして井上ひさし九条の会。思想的には反社会勢力って今の時代言われかねない。政治的な発言しっぱなしですよ、ふたりとも。そのふたつが2020年3月、東京の演劇として生き残っていたのがちょっと暗喩的すぎて。まあ紀伊國屋さんの話でもあるんですけど。最近そういう政治的な色って本当に好まれない。あと誰もが発言できるようになった世の中はすばらしいけれど、容易に炎上してしまうからなあ。

 芸能や演劇、小説、とにかくエンタメまわりのいろいろについて思いを馳せる。

 ところで戦前の演劇(芸能)弾圧みたいな話については、以前読んだ『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』が非常に興味深かった。桜隊については被爆したことばかりがクローズアップされがちだけど、そこに至るまでの経緯も詳細が興味深く、被爆死した桜隊の座長である丸山定夫がプロレタリア演劇の役者だったのが、言論統制を経て国策演劇の役者になるまでが詳細に描かれている。プロレタリア演劇というか新劇というか。そういう背景を見ると紀伊國屋ホールは自分ところの公式サイトに「『新劇の甲子園』とも呼ばれています。」とか書いちゃうところだからなあ、と繋がってくる。東京宝塚劇場の戦後接収を描いた『アーニー・パイル劇場―GIを慰安したレヴューガール』でも戦前の接収について描かれていたな。

 ともあれ演劇に限らず芸能や表現は政治に規制されてきた歴史があるわけです。なんなら江戸時代にもそれ以前にもね。河原者かあ、となりますよね。いやまあ感染症で規制されるのは別の話だけどね。えっとなんの話でしたっけ。