「夜空ノムコウ」- SMAPとA.B.C-Z河合郁人さんのこと -

 10/1から10/2にかけてA.B.C-Z大阪城ホールのコンサートに行ってきました。しばらく泊まりがけの遠征を自分に禁じていたので、およそ3年ぶりの泊まりがけの遠征です。

 10/1の夜公演、大阪初日。河合郁人さんがソロコーナーの後半でSMAPの『夜空ノムコウ』を歌いました。イントロが流れ出したその瞬間、私はなにがおこったのかよくわからず、泣き崩れそうになりました。隣の友人が「ちゃんと見て!」と言って私の腕を掴みました。支えてくれました。正直なところ、私はあの瞬間、自分がどんな気持ちだったのか、もうよくわかりません。他のお客さんたちがどんな反応をしていたのかもよくわかりません。私は1月の騒動以降、初めてあんなに泣きました。体の震えが止まりませんでした。泣きながら『夜空』を歌う河合さんを見ていました。途中に河合さんは木村さんの物真似まで入れてちゃんと笑いもとって、歌い終わったあと「僕も偉大な先輩たちのように、スーパースターになりたい!」と”偉大な先輩たち”の名前は出さずにそう言ってフライングをしました。

 10/2の昼公演でも同じように河合さんは『夜空』を歌いました。私はもう泣きませんでした。ただ双眼鏡で河合さんを見ていました。見なければならないのだと思いました。でもその時ほんの少しもう『夜空』じゃなくてもいいのに、という気持ちが過ぎりました。

 そしてこの昼公演でも河合さんは『夜空』のあとに「偉大な先輩たちのように」という言葉を使いました。そこに他の先輩たちが含まれるとしても、そうだとしても、どうしてSMAPという単語を口にできないのか、口にしてはならないのか、そういう歯がゆさも感じました。その名を口にすることも許されないのかとさえ思いました。

『夜空』は特別な歌です。私は1月の騒動以降何度もこの歌の歌詞の中にある「あの頃の未来」という単語を使ってきました。『夜空ノムコウ』は毎年のように出る解散説の中リリースされた曲です。そういう時代でした。あのとき「解散コンサートでこの曲聞くのかな」なんて話したことを覚えています。

 この大阪城ホール公演の前、8月の代々木体育館のコンサートで河合さんは同じコーナーで違う曲を歌っていました。その中にSMAPのデビュー曲である『Can't Stop!! -LOVING-』の振付をいれるという小さな遊びもありました。

 そのコンサートの翌々日深夜にSMAP解散が発表され、あの8月と今この10月で少なくとも私にとって世界は変わってしまいました。

 私はとても不安でした。今だって不安です。大好きなものを囲む世界への不信感、彼らの後輩であるA.B.C-Zを今までと同じように愛せるのかさえ不安でした。『夜空』の直前、河合さんは『S L BOY』(うたまっぷ歌詞無料検索)というちょっと自虐的な曲を馬のハリボテに乗って頭にパトランプをつけて歌っています。とても楽しいソロコーナーです。代々木ではその後も楽しい歌でした。『夜空』が歌われるまでコンサートはとても楽しくて、大丈夫なんだと安心していました。でも1日目の『夜空』のあと急にすごく不安になりました。だから、楽しい曲を聴きたい気持ちがありました。楽しくコンサートを終えたかったのです。

 10/2の夜公演。A.B.C-Zのコンサートツアーのオーラス。河合さんはまた『夜空』を歌いました。前の2回と同じように「僕も」と言ってから一呼吸あったような気がしました。そのあと彼ははっきりと「SMAPのようにスーパースターになって大きく羽ばたきたい!」と言ってフライングをしました。

 彼は「SMAPのようになりたい」と今このときコンサートではっきりと言ったんです。

 

 A.B.C-Zは私がSMAPのあとに初めて大好きになったジャニーズのグループです。普通の人よりもジャニーズ所属の他のグループのことは好きだとは思います。でもSMAP以外の若手のジャニーズグループを大好きになることなんてないと思っていました。好きになったのは本当に突然でした。

『ザ少年倶楽部』というジャニーズの若手が出演しているNHK BSの番組の公開収録にKis-My-Ft2ファンの友人とたまたま入る機会がありました。2012年7月2日のことです。そこには他の若手グループも出演していました。私はその瞬間までA.B.C-Zがどんなグループかもよく知りませんでした。その年にDVDデビューしたばかりということくらいの知識しかありませんでしたし、私は河合さんの名前さえ知りませんでした。なのに本当にまるで恋に落ちるように、どうしてなのかもわからないままに、彼のファンになったのです。彼を見た瞬間、隣にいた友人に「彼は誰!?」と聞いたほどでした。そしてその夜からA.B.C-Z河合郁人という人のことを必死に調べました。

 そして彼が事務所内ジャニオタと呼ばれていて、SMAPのファンであること、そしてジャニーズの先輩たち(特に木村さんと松本潤さん)の物真似をすること、木村拓哉に憧れて事務所に入ったことを知りました。

 それから怒濤のA.B.C-Zオタ生活が始まりました。8月には『SUMMARY』と呼ばれるコンサート(のようなもの)に、9月には『少年たち』という舞台に行きました。どちらもA.B.C-Zの5人が全員出演しているステージです。彼らのステージは本当にすばらしいものでした。どんどん好きになっていきました。そして、アラフォーになって初めての経験をいくつかしました。夜行バス遠征も、チケット交換で知り合った人と公演後にそのまま盛り上がって2人で飲みに行くというのも実は初めてでした。濃いめのアイオタとして生きてきたつもりなのに、まだこんなにもやっていないことがあるのかと思いました。

 そんな中迎えた2012年9月27日のSMAPの東京ドームでのコンサート。初めて河合さんを好きになってから3ヶ月くらいの、ファンとしては一番盛り上がっている時期。その日私も東京ドームにいました。そしてA.B.C-Zの5人もそのコンサートを見学に来ていました。ちょうど双眼鏡で私がそれを確認できる位置に彼らはいました。河合さんはコンサート中ずっと楽しそうでした。本当に楽しそうでした。

 コンサート後半、香取さんが「A.B.C-Z!」とステージに彼らを呼び込みました。曲は『オリジナルスマイル』。その時一番大好きなアイドルと、ずっとずっと好きなアイドルが同じステージの上、笑顔で立っていました。そこで河合さんは木村さんに肩を組んでもらって、それがモニターに大写しになりました。河合さんのあの表情。幸せそうでした。見ていた私も幸せでした。それはとても特別な瞬間でした。見ていた私はやっぱりあのときも震えていました。

 

  あれから4年が経ちました。その間、A.B.C-Zと河合さんをいっぱい見てきました。友だちも増えました。ちょうど年齢差はSMAPのコンサートに一緒に行く友人たちと同じくらい。SMAPのとき私は年下組で、A.B.C-Zのときは年上組です。なんならSMAP仲間とA.B.C-Z仲間が親子でもおかしくないくらいの、その真ん中に私はいます。

 8月のコンサートから演目を変えて河合さんが歌った『夜空ノムコウ』。そして歌い終わったあとに「SMAPのようにスーパースターになって大きく羽ばたきたい!」と彼がはっきりと言ったことを私は絶対に忘れません。事務所の後輩でもあり、SMAPファンでもある河合さんの心中が今どんなものなのかなんて私にはわかりません。「偉大な先輩たち」と名前を出さなかった2公演、そして「SMAP」と名前を出した最終公演。そこにどんな気持ちがあったのかなんてわかりません。

 彼が「SMAP」という単語を口にした瞬間、私は苦笑いをしていたと思います。「しょうがないなあ」とか「バカだなあ」とかそんなのが一番近い気持ちだった気がします。それは同時に大阪初日に『夜空ノムコウ』を聞いた瞬間に泣き崩れた自分への気持ちだったのかもしれません。

 

  ねえ河合さん、本当にありがとう。大阪のコンサート、行ってよかった。もうちょっとなんとかやっていけそうだよ。河合さんを好きになってよかった。だからさ、A.B.C-Zのもっと先の「あの頃の未来」を見せてよ。私東京ドームか新国立競技場の最後列で泣きながらそれを見るからさ。頼むよ。

アイドルと狂気と諦念と憶測と

 1月からここ半年くらい、ファンの人たちの狂気をずっと見ていた。いやその狂気というか狂乱はまったく終わっていないのだけれど。

 インターネットは愛を狂気にし、狂気を狂喜にするのがとても容易で、あっという間にみんな狂っていく。第一報から24時間私はインターネットもテレビもなにも見なかった。ノイズもそうだけど、その狂気にあてられないようにすることの方が大事だった。こわかった。未だそこには狂気がいっぱいだ。

 そもそもファン活動であるとか、オタ活動は狂気に満ちているもので、一方でそれは自覚を持って狂気に突っ込んでいく、みたいなところがある。私だって常に狂気に魅入られているし、今の自分は狂気に満ちている、と思う。1月の私だって完全に頭がおかしかった。ベースとして私は普通の人より少し頭がおかしい自覚があるのだが、でも今回の騒動で狂気に魅入られてしまった人たちは、そうじゃない。その上で狂気を完全な正義だと思い込んでいる。自分が狂っているなんて思ってない。愛は狂気とはよく言ったものだけれど、憶測だけでなぜいとも簡単にそんなことができるのか、同じ事を言っている人がいるという、あるいは思った人がいるというだけで加速していくネットの相乗効果は本当にこわい。

 これって多分政治の話とかでも同じで、こうやって人は狂っていくというのを見せつけられた気がする。いつどこで同じ狂気に魅入られてしまうかわからない。そういえば東日本大震災のときだってそうだった。

 

***

 

 ねえ、私の狂気の話をしようか。20年以上彼らを見てきた私が今思っていることの話をしようか。私が今考えている憶測と陰謀論に満ちた話をしようか。怨嗟を連ねようか。事実と虚構と噂話と思い込みがないまぜになった話をしようか。

 でもそんなことをしてなんになるというのか。事実が知りたい、彼らの口から話が聞きたい、じゃあ1月に彼らの口から話されたあの言葉はなんだった? 事実だった? 知りたい事実だった? ねえ、本当にそうだった? 事実なんてどこにあるの。どこにもないよ、そんなもの。

 私は昨日「知ってたよ」と書いた。それは諦念だ。第一報から私には諦念しかなかった。だってあのときもそのときも諦めるしかなかった。私たちはいっぱい諦めてきたはずだ。本当は諦めちゃいけないのかもしれない。でも私は私のために諦める。ほんの少しの期待だけを抱いて諦める。諦めるしかないんだと自分に言い聞かせている。言い聞かせてるんだよ。それが本当はどういうことかなんて聞かないで欲しい。私はこれ以上狂いたくない。

 最後にひとつだけこの件について私が初めてTweetしたことをそのまま話そう。私はステージの上にいる人たちを見るとき、ライトの当たっていないところは真っ暗で、見ないふりをするのはオタの矜持みたいなものだと思っている。一番始めにそのライトの当たっていないところを暴きたてたのは誰だ。その結果がこれか。だとしたらそこに未来はない。私が20年以上愛してきた人たちの、愛している人の未来を奪ったように、もしかしたら、今愛しているあの子たちの未来だって奪ってしまうかもしれない。どうか彼らの未来を奪わないで。あなたたちがやっているのはそういうことだ。そういうことなんだ。

ありがとう

 知ってたよ、というのが第一報を受けた時の気持ちだった。だから驚きも悲しみもなかった。1月には衝撃があったけど、今回衝撃はなかった。知ってたよ。オタの肌感覚っていうのは大体において正しいんだなとも思った。知ってたよ。そうなるんじゃないかって思ってたよ。でも、あのときだってそのときだって彼らはそれを乗り越えた。だから今回もそれを乗り越えるような奇跡を見せてくれるんじゃないかって期待してたんだ。

 でも私は期待を裏切られたなんてこれっぽっちも思っていない。あの頃の未来に立っている彼らが、彼が、未来の世界を愛せないよというならそれはもう仕方ないんだ。それでももしかしたら、この先にあの頃の未来があるかもしれないなんて、ほんの少しだけ期待してしまうけれど。

 第一報からおよそ24時間、私はインターネットを含めたありとあらゆる情報をできる限り遮断して過ごした。見たのはファンクラブのサイトだけだ。一次情報のそれ以外はすべてノイズだった。あとは親しい友人たちとやりとりをしただけだった。それで十分だった。

 1月に私は「SMAPは人生」という文章を書いた。彼らで知った”初めて”が私にはいっぱいあった。そして今私の初めてがもうひとつ加わろうとしている。

 ねえ私はたぶんあなたたちが思っているよりもはるかに、あなたたちがあのとき言った「エンタテインメントの力を信じている」よ。あなたたちは私にいっぱいいろんなものをくれたよ。あなたたちの未来がこれから先も輝いているように祈るよ。その道を選んだあなたたちがどうか幸せでありますように。ありがとう。

 

happy-hour.hatenablog.com

 

猫の血栓症の話 / シロ闘病記

 うちの猫シロの具合が悪くなったのは5月27日深夜のことだ。それから今日で4週間。今、シロはとりあえず元気だ。

 タイトルは猫の血栓症としたが、正確には「大動脈血栓塞症」というらしい。この病気は猫の下半身の大動脈(腰の付近にある両足に血を送る血管が二股にわかれている場所)を血栓が塞いでしまう病気で、若年の猫でも発症し、下半身が麻痺してしまう。もちろんほかのところに血栓が詰まることもある。数日内に70%が死亡。予後も悪く、生き延びた30%のうち半分が30日~60日前後で死亡。再発率も高い。また麻痺した下半身が壊死し、切断を余儀なくされる場合もあるという。(「三鷹獣医科グループ・新座獣医科グループ」ホームページ:猫の大動脈血栓栓塞症 アイリスオーヤマ:猫の病気:猫の血栓塞症 などを参考に、私が医師から聞いた話などで補足)

 シロは若い頃に心臓が悪いと言われたことがあった。しかしそのまま今年16歳になる。5月の中旬に私は引っ越しをしている。猫にとって引っ越しはストレスだ。特に老猫にとっては、かなりのストレスだろう。引っ越しをしなくても発症したかもしれないしそうでないかもしれない。

  • 5月27日 深夜0時頃仕事から帰宅。玄関にやけに猫の毛が散らばっていたことを覚えている。そのまま部屋に入ったら猫トイレでシロがうずくまってにゃーにゃー鳴いていた。(帰宅後気がついたが、床にオシッコをされていたり、カーテンに爪痕が残っていたり、という苦しんだことが推測できる状況だった)抱き上げると下半身がブランと動かない。そして冷たい。即救急の獣医を検索しタクシーで連れて行く。病院に到着したのは深夜1時頃だろうか。検査で病名を告げられる。獣医の診療報告書によると「股動脈圧は左右とも触知できず、レントゲンでは心拡大は見られるものの、呼吸は安定しており鬱血兆候はありませんでした」とある。この時点で後ろ足は完全に麻痺し、肉球は紫色だった。治療について説明を受ける。クリアクターという薬剤があり、高価だが血栓溶解の可能性があるという。投与は早期であればあるほど溶解の可能性が高いが、溶解した場合再灌流障害(止まっていた血液が急に流れることによる障害:「テレビなどでクラッシュ症候群について見たことはありませんか? それと同じです」という説明を受けた)が発生し、死に至ることもあるという。投与しない場合は、通常の薬投与となるがどうしますか、と聞かれた。少し悩んでクリアクターの投与を選択。シロはそのまま入院となる。
  • 5月28日 面会。容体は安定しているが、食事は取らないそう。診療報告書によると「昼あたりには左の股動脈が若干触知できるようになり、夜にはしっかりと触知可。右は触知不可」と記載されている。
  • 5月29日 退院。というのもこの病院は基本的に救急医療病院であり、治療費も割高(と先生が言った)なため、かかりつけの獣医への転院を入院時から推奨されていた。診療報告書とエコーとレントゲン写真の入ったCD-Rも渡してくれた。点滴の針は入ったままがいいでしょう、と針とエリザベスカラーをつけたまま帰宅。シロはぐったりとしている。食事も取ってくれない。下半身はほぼまったく動かない。シロがいるソファの横で寝る。おしっこに関してはそのままソファで垂れ流し状態だったのでペットシーツなどで対応。
  • 5月30日 資料を持って近所の獣医に連れて行く。薬をもらい、いろいろ相談。1週間後の血液検査の結果でだいぶ予後が変わるとのことだった。エリザベスカラーも外していいとのこと。しかし点滴の針は万が一に備えて入れたまま。嫌がったら外してくださいとのことだった。そして夜から私が発熱してしまう。猫が倒れて飼い主倒れてどうすんだという話もあるが、限界だった模様。
  • 5月31日 シロは相変わらずほとんど食事をとらない。食べるならなにを食べさせてもいいと言われたので、高齢猫用のパウチのウェットフードをあげたらちょっとだけ食べた。おしっこはまだソファ。というかソファからほとんど動かない。水をいっぱい飲んだ。この日私はシロの隣でほぼ完全に寝込み、連絡がつかないというワヤをやる。その上シロの具合も悪かった。妹に「ダメかもしれない」とLINEをしている。そう思いながら翌日は絶対に外せない時間拘束の仕事があるため、覚悟を決める。
  • 6月1日 初の長時間外出。帰宅して真っ先にシロの顔を見て安心する。さらにこのとき、左足が動くようになっていた! 動いた! ちょっとだけ安心してさらに打ち合わせに外出(つまり都心に1度出て自宅に戻り、もう1度都心に出た)。そしてこの夜、突然ものすごい食欲(といっても通常よりは少ない)をシロが見せる。
  • 6月2日 左足は動くようにはなっている。足を引きずって部屋の中を少しうろうろしはじめる。この日、シロと全然関係ないちょっとしたことで泣いてしまい、自分が予想以上に弱っていることを知る。
  • 6月3日 ためしに食後にトイレに連れて行くと、下半身を投げ出した状態ではあるが、そこでちゃんとすることが判明。おまえできるやつだな! 私は完全に不眠状態だったので、シロの隣で寝るのをやめる。とはいえ眠りは浅い。目覚めてはシロの様子を見に行く。
  • 6月4日 獣医。麻痺している右足の先端と身体の血液成分がほぼ同じなため、右足にも血が通っており、壊死はなく、全体的な血液数値も大幅に回復。ただし心臓内には別の血栓が留まっており、下半身の麻痺も回復するかどうかわからない。体重も減少。点滴の針は外れた。足を少しリハビリさせてもいいかも、とのこと。つまり予後がそこそこいいということだった。油断せずに行きましょうとの話。次の通院は2週間後。ここでようやく少しだけ安心した。板の間より歩きやすいだろうと購入したラグが到着。結果的にラグは正解で、あちこち動き回るようになる。このへんで尻尾も動き始める。

 これが大体発症から10日間の話だ。リハビリは足の屈伸的なものをゆっくりやっていたのだが、シロには非常に嫌がられていた。また薬は当初シリンジで直接口に与えていたのだがこれまた本当に嫌がり、ふと匂い強めの高齢猫用ウェットフードに混ぜたら食べることが判明したので、今までの苦労はなんだったんだ……となった。

  • 6月12日 今までずっとトイレに運んでもらっていたシロが突然自分でトイレに行き、ひとりで用を足す。めっちゃビックリする。しかしまだこの頃は食後にトイレに運ぶミッションをしていた。また右足は根元から麻痺ではなく、先端部分(後ろ足の肉球手前の関節より後ろ)だけが麻痺している程度にまで回復。
  • 6月13日 突然階段を降り始めるのでビビる。昇るのはできない模様。私が確認した限りではその後1回しか階段降りにはチャレンジしていない。
  • 6月16日 獣医で自分でトイレに行きましたと告げたら「エッ?」と聞き返され、ここまでの回復は非常にレア、と言われる。これは本当にうれしかった。途中薬を取りに行く必要はあるが、次の通院は一ヶ月後でいいとのこと。

 そして今日で発症から4週間。シロは元気だ。右足は引きずっているけれど、トイレも完全に自分で行くようになった。食事は食べるときも食べないときもあるが、もともとムラっ喰いの猫だったのでそれほど心配はしていない(獣医に相談したら薬は最悪半分飲めればと言われている)。ついでに言うとチキンのパウチは嫌いということがわかった。

 治療に関して言えば、これは勝手な判断だが、クリアクターの投与がおそらく明暗をわけたのではないかと思う。治療に関して検索したとき、このクリアクターの投与とその値段に迷いを書いている人がいた。クリアクターは高価な上にリスクも告げられるし、正直私も投与を少しためらった。通常の獣医より割高です、と説明された救急センターで私がクリアクターのみに支払った額は75000円。検索では5万円からそれ以上、という価格が出てきた。ちなみに救急センターには2泊3日の入院でクリアクター代含めて大卒初任給くらいの額を支払った。

 生き物と暮らすということは、その死と向き合うということだ。しんどい4週間だったことは間違いなく、あちこちに迷惑をかけまくった。いやこれは現在進行形か。別れへの準備の時間をくれたのかもねと友人に言われて、本当にその通りだと思った。今もきっとその準備期間なのだろう。生き残った猫のうち半分が30日〜60日で死んでしまうというその60日を超えてもいない。もしかしたら1時間後にシロは動かなくなってしまうかもしれない。でもそれは他の猫だって人間だって同じ事だ。

 いろんなことをネットで検索した。同じ病気の猫の闘病日記は正直読んでいてつらいものが多かった。読んでよく泣いていた。闘病日記どころか、数日で死んでしまった猫の話もたくさんあった。安楽死の話もあった。4週間前のこの時間シロは緊急入院していた。でもシロは今わたしの隣でのんびりとしている。苦しそうな様子はまったくない。

 シロの病気についてちゃんと書いておかないとなあ、と思ったのは私がとにかくネットの記事に絶望したり希望を抱いたりしたからだ。同じ病気になった猫を飼う誰かの助けに少しでもなりますように。そしてネットに闘病日記を書いてくださったどこかの猫飼いさん、本当にありがとうございました。

https://www.instagram.com/p/BG_LTeIp-vm/

晴れてきたねえ、と話しかけたら、鳴いた。#cats

 

追記:検索でいらっしゃる方がたくさんいるので、追記しますと、この年の12月までシロは生きました。発症から約半年です。足を引きずっていたのは夏くらいまで(このとき足カバーとして包帯だけではなく、100円ショップで売っている家具用の足カバーを使っていました)。その後は普通に動き回るようになり、最期まで足を引きずることはなく、トイレも自分で行っていました。

ちょうど3ヶ月サボった

 3月11日にあげたのが最後だから、ちょうど3ヶ月さぽってしまった。3ヶ月の間になにをしていたかというと、なにしてたかな。4月は久しぶりに宮城にいってきた。それはちょうど熊本の地震のただ中で、2011年に宮城を訪ねたのと同じ季節だった。復興支援でちょっとだけお手伝いしていた団体が終了することになり、それをきっかけに石巻にいってきたのだった。あのときと同じ桜の季節だったよ。そしてひとつ前の記事に登場する宮城の友人の新築のご実家にお邪魔した。彼女の90歳の祖母が「結婚」についてプレッシャーをかけており「急に来るから男でも連れてくるかと思ったのに!」との言葉に一緒にいった女子たちの立場ナシ! でもほんといい旅だった。

 5月に引っ越しをした。今まで池袋サンシャインの裏あたりに住んでいたのだが、だいぶ離れて埼玉県境まで50mくらいのギリギリ都内に引っ越した。広さを求めたのは正解だった。すごく快適だ。猫たちも全員連れて行った。

 2週間後、引っ越しの片付けもままならぬ中、最長老である猫のシロ16歳が倒れた。心臓病からくる血栓だった。この話、私も検索してだいぶ救われたので、あとでちゃんと書きたいと思う。とりあえず二週間後の今、シロはまあまあ元気である。まあまあだけど。

 引っ越し前実は一番心配していたのはシロのことだった。高齢猫の引っ越しとストレスについて書かれていた。だが、シロが死ぬまで引っ越しをしないのかと考えて答えはNOだった。そんなのシロも望まないだろうと。結果的に前の家で私はシロの介護をできなかっただろうし、これでいいのだと思っている。

 3月から5月に見た舞台や映画。

3/26 【堺三保 ハリウッド流映画脚本講座 シナリオの構造とは?】

実は私が週1回講師をやっている学校の同僚でもある堺先生なのだが、申し込んだ時点で堺さんが何者なのかもしらなかった。ただお題にシドフィールドの名前があったので興味を持ったのだ。ちょうど前々日にお会いして、名刺交換をして、帰宅してからスケジュール確認して気がついた。そして講義はめちゃくちゃおもしろかった。大人になってあんなに必死にノートをとったことはない気がする。

4/13 【ジャニーズ野球大会】

引っ越しの最中出てきたチケットには1995年のものがありました。楽しかった! 楽しかった! 私の大好きなA.B.C-Z河合さんが試合ではないところで活躍していて、きゅんきゅんしました。

4/20 【滝沢歌舞伎】

友人のお母さまが急に行けなくなって……ということで急遽一度見てみたいと言っていたシナリオライター男子と一緒に行きました。ほんっとに滝沢さんは美しいな。そして今回のゲスト三宅健さんも最高だった。楽しい! なんかすごい! しかないエンタメ舞台って最高だと思う。

5/04 【あそぶ浮世絵 ねこづくし】

横浜そごう美術館でやっていた古今東西の猫を集めた美術展。あのねえもうほんと猫って昔からバカだな! 久々に図録を買ってしまった展示でもありました。

5/24 【寝盗られ宗介】

A.B.C-Z戸塚祥太さん主演のつかこうへい/錦織一清演出舞台。高橋由美子がすごかったよ……。そして男性に向けて正しいのかはわからないけれど、戸塚さんは美しかったです。そろそろつか芝居じゃない戸塚さんを見てみたい。

あとはキンプリを追加で2回くらいと、小劇場いくつか見たかな。小劇場ちゃんと紹介してやれよ!

そんなかんじでしょうか。そろそろちゃんとしていないところをちゃんとしていきたいと思っております。

ある晴れた日に

 もうあれから5年も経つのか。もう5年なのかまだ5年なのかもよくわからない。

 あの日から約50日後、私は宮城に行った。青空の広がるいい天気の日だった。その時のことを書いた文章を非公開になっていたblogから公開にした。(7)と番外編の間に2013年3月11日の記事も挟まっている。番外編はおたくの神様の話というか、2011年4月の観劇でおきたちょっとした奇跡みたいな話をしている。

lie800.hatenablog.com

 後日談としては、相変わらず彼女とは友人で、一昨年秋、ご実家から震災後初めて取れた新米を送っていただいた。昨年秋にも送っていただいた。私の貧弱な舌では震災前に送っていただいていた新米と同じ味なのかどうかはわからない。でも相変わらずうまい米だ。

  これも後日談のひとつだろう。(公開は本人に許可とってますよ!)

 しんどかったことや悲しかったことはあとで笑い話にできるといい。そこには深い悲しみや苦しみがあるけれど、それでも笑えることはとても幸せだ。このTweetの話を笑っていいのかわからない、と言われたことがあるけれど、私は一緒に笑えばいいと思う。そしてそれを思い出話にできることもきっといいことだ。忘れてはならないけれど、忘れたっていいんだ。でもたまに思い出す。当事者じゃない私たちは、心の片隅に置いておいて忘れない。そういうことがあったということを忘れない。

 震災の翌日、私はこうTweetした。

  あのときのこれは今思えば自分自身に向けた言葉だった。もうひとつ、冒頭にも書いたが、震災から2年後の2013年3月11日に書いた文章も公開してある。

lie800.hatenablog.com

 どうもあの日のことを思い出すと私の肩には力が入ってしまう。いや文章にだって力が入ってしまう。この記事から3年経っても震災関連の番組は見られない。

 今年も3月11日14時46分がやってくる。

 時間はあの瞬間からずっと続いている。今も仮設住宅で生活している人たちがいる。3月11日付近だけそのことを語っても仕方ないと憤る人たちもいる。でも語らないより全然いいと思う。祈るだけでは伝わらない思いを伝える努力を忘れないように、と今も思う。忘れないように。私が思うのはそれだけだ。

1月2月に見てきたもの

ジャニーズワールド

 大晦日の『ジャニーズカウントダウンコンサート』@東京ドームから元旦『ジャニーズワールド』@帝国劇場というのを4年連続やってます。これが私の年末年始だ! ジャニワは初演が1番意味不明でおもしろかったのと、やっぱり山田さま(Hey! Say! JUMP 山田涼介)すごかったなーって公演繰り返す度に思う。あと滝沢公演がほんと楽しかったよ。って初演の話ではなく、4年目は4年目でおもしろかったです。しょりたん(Sexy Zone 佐藤勝利)もすごいけど、がんばってる感じが伝わってきすぎる。Jr.はもうちょっと殺陣なんとかがんばれ。私はジャニワのA.B.C-Zのこともすごく好きなので、そのうち日替わり支配人とかやって欲しい。
 
◆あゆみくりかまき
 
 札幌の劇団パインソーの東京公演。3話のうちの2話目を見に行きました。パインソーを見るのは2回目なんですけど、どっちも欲望の話をしていた気がする。あと舞台上に映し出されるト書きみたいな演出がちょっとよかった。あれだけスタイリッシュにああいう演出やってるのあんまり見たことない。
 
 もはや安定して楽しめるテニミュ。推しというか担当がいないので安定して楽しめる気がする。5年前の2nd通称「ルド吹」公演は、震災で初日が延びた特別な公演だったのを思いだし、今回も引き続き歌われた「勇気 vs 意地」で少し泣きそうになる。あの4月の公演は特別だった。そしてこの「勇気 vs 意地」で全員が歌うところが好きです!
 
◆キンプリ

happy-hour.hatenablog.com

 もうちょっといろいろインプットしたいなー。特に映像系。3月4月の目標としましょう。

 追記しておくけど、若手舞台とかジャニーズ舞台は「がんばってるなー」って感動もあるんだけど、舞台としては未完成なのではないかって疑問をずっと抱いている(もちろんそうじゃない舞台もある)。ただそういう見方が間違っているわけではないし、それを見に行くというスタイルが否定されがちなのは、なんかやだなあって。でも完成度とは、って考えると、うーんって。あるいは未完成をわざわざ見に行くのか。でも「がんばってるなー」を見に行く舞台でがんばってない奴はすぐにわかる。一方で視点を変えれば「がんばってる」が伝わってきちゃうのは未熟でもあるし(前述のがんばってない奴とは別ね。そういう奴はそれ以前の問題なので)。実際には舞台の完成なんてありえないのかもしれない。あるいはすべての舞台は完成している、とも言える。完成じゃなくて成功なのかもしんない。成功したか否か。となると今度は成功とはなにかってなる。赤字じゃなきゃ成功かもしれん。難しいね。まあ芸術やエンタテイメントってそんなもんか。