アイドルと狂気と諦念と憶測と
1月からここ半年くらい、ファンの人たちの狂気をずっと見ていた。いやその狂気というか狂乱はまったく終わっていないのだけれど。
インターネットは愛を狂気にし、狂気を狂喜にするのがとても容易で、あっという間にみんな狂っていく。第一報から24時間私はインターネットもテレビもなにも見なかった。ノイズもそうだけど、その狂気にあてられないようにすることの方が大事だった。こわかった。未だそこには狂気がいっぱいだ。
そもそもファン活動であるとか、オタ活動は狂気に満ちているもので、一方でそれは自覚を持って狂気に突っ込んでいく、みたいなところがある。私だって常に狂気に魅入られているし、今の自分は狂気に満ちている、と思う。1月の私だって完全に頭がおかしかった。ベースとして私は普通の人より少し頭がおかしい自覚があるのだが、でも今回の騒動で狂気に魅入られてしまった人たちは、そうじゃない。その上で狂気を完全な正義だと思い込んでいる。自分が狂っているなんて思ってない。愛は狂気とはよく言ったものだけれど、憶測だけでなぜいとも簡単にそんなことができるのか、同じ事を言っている人がいるという、あるいは思った人がいるというだけで加速していくネットの相乗効果は本当にこわい。
これって多分政治の話とかでも同じで、こうやって人は狂っていくというのを見せつけられた気がする。いつどこで同じ狂気に魅入られてしまうかわからない。そういえば東日本大震災のときだってそうだった。
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ねえ、私の狂気の話をしようか。20年以上彼らを見てきた私が今思っていることの話をしようか。私が今考えている憶測と陰謀論に満ちた話をしようか。怨嗟を連ねようか。事実と虚構と噂話と思い込みがないまぜになった話をしようか。
でもそんなことをしてなんになるというのか。事実が知りたい、彼らの口から話が聞きたい、じゃあ1月に彼らの口から話されたあの言葉はなんだった? 事実だった? 知りたい事実だった? ねえ、本当にそうだった? 事実なんてどこにあるの。どこにもないよ、そんなもの。
私は昨日「知ってたよ」と書いた。それは諦念だ。第一報から私には諦念しかなかった。だってあのときもそのときも諦めるしかなかった。私たちはいっぱい諦めてきたはずだ。本当は諦めちゃいけないのかもしれない。でも私は私のために諦める。ほんの少しの期待だけを抱いて諦める。諦めるしかないんだと自分に言い聞かせている。言い聞かせてるんだよ。それが本当はどういうことかなんて聞かないで欲しい。私はこれ以上狂いたくない。
最後にひとつだけこの件について私が初めてTweetしたことをそのまま話そう。私はステージの上にいる人たちを見るとき、ライトの当たっていないところは真っ暗で、見ないふりをするのはオタの矜持みたいなものだと思っている。一番始めにそのライトの当たっていないところを暴きたてたのは誰だ。その結果がこれか。だとしたらそこに未来はない。私が20年以上愛してきた人たちの、愛している人の未来を奪ったように、もしかしたら、今愛しているあの子たちの未来だって奪ってしまうかもしれない。どうか彼らの未来を奪わないで。あなたたちがやっているのはそういうことだ。そういうことなんだ。
ありがとう
知ってたよ、というのが第一報を受けた時の気持ちだった。だから驚きも悲しみもなかった。1月には衝撃があったけど、今回衝撃はなかった。知ってたよ。オタの肌感覚っていうのは大体において正しいんだなとも思った。知ってたよ。そうなるんじゃないかって思ってたよ。でも、あのときだってそのときだって彼らはそれを乗り越えた。だから今回もそれを乗り越えるような奇跡を見せてくれるんじゃないかって期待してたんだ。
でも私は期待を裏切られたなんてこれっぽっちも思っていない。あの頃の未来に立っている彼らが、彼が、未来の世界を愛せないよというならそれはもう仕方ないんだ。それでももしかしたら、この先にあの頃の未来があるかもしれないなんて、ほんの少しだけ期待してしまうけれど。
第一報からおよそ24時間、私はインターネットを含めたありとあらゆる情報をできる限り遮断して過ごした。見たのはファンクラブのサイトだけだ。一次情報のそれ以外はすべてノイズだった。あとは親しい友人たちとやりとりをしただけだった。それで十分だった。
1月に私は「SMAPは人生」という文章を書いた。彼らで知った”初めて”が私にはいっぱいあった。そして今私の初めてがもうひとつ加わろうとしている。
ねえ私はたぶんあなたたちが思っているよりもはるかに、あなたたちがあのとき言った「エンタテインメントの力を信じている」よ。あなたたちは私にいっぱいいろんなものをくれたよ。あなたたちの未来がこれから先も輝いているように祈るよ。その道を選んだあなたたちがどうか幸せでありますように。ありがとう。
猫の血栓症の話 / シロ闘病記
うちの猫シロの具合が悪くなったのは5月27日深夜のことだ。それから今日で4週間。今、シロはとりあえず元気だ。
タイトルは猫の血栓症としたが、正確には「大動脈血栓塞症」というらしい。この病気は猫の下半身の大動脈(腰の付近にある両足に血を送る血管が二股にわかれている場所)を血栓が塞いでしまう病気で、若年の猫でも発症し、下半身が麻痺してしまう。もちろんほかのところに血栓が詰まることもある。数日内に70%が死亡。予後も悪く、生き延びた30%のうち半分が30日~60日前後で死亡。再発率も高い。また麻痺した下半身が壊死し、切断を余儀なくされる場合もあるという。(「三鷹獣医科グループ・新座獣医科グループ」ホームページ:猫の大動脈血栓栓塞症 アイリスオーヤマ:猫の病気:猫の血栓塞症 などを参考に、私が医師から聞いた話などで補足)
シロは若い頃に心臓が悪いと言われたことがあった。しかしそのまま今年16歳になる。5月の中旬に私は引っ越しをしている。猫にとって引っ越しはストレスだ。特に老猫にとっては、かなりのストレスだろう。引っ越しをしなくても発症したかもしれないしそうでないかもしれない。
- 5月27日 深夜0時頃仕事から帰宅。玄関にやけに猫の毛が散らばっていたことを覚えている。そのまま部屋に入ったら猫トイレでシロがうずくまってにゃーにゃー鳴いていた。(帰宅後気がついたが、床にオシッコをされていたり、カーテンに爪痕が残っていたり、という苦しんだことが推測できる状況だった)抱き上げると下半身がブランと動かない。そして冷たい。即救急の獣医を検索しタクシーで連れて行く。病院に到着したのは深夜1時頃だろうか。検査で病名を告げられる。獣医の診療報告書によると「股動脈圧は左右とも触知できず、レントゲンでは心拡大は見られるものの、呼吸は安定しており鬱血兆候はありませんでした」とある。この時点で後ろ足は完全に麻痺し、肉球は紫色だった。治療について説明を受ける。クリアクターという薬剤があり、高価だが血栓溶解の可能性があるという。投与は早期であればあるほど溶解の可能性が高いが、溶解した場合再灌流障害(止まっていた血液が急に流れることによる障害:「テレビなどでクラッシュ症候群について見たことはありませんか? それと同じです」という説明を受けた)が発生し、死に至ることもあるという。投与しない場合は、通常の薬投与となるがどうしますか、と聞かれた。少し悩んでクリアクターの投与を選択。シロはそのまま入院となる。
- 5月28日 面会。容体は安定しているが、食事は取らないそう。診療報告書によると「昼あたりには左の股動脈が若干触知できるようになり、夜にはしっかりと触知可。右は触知不可」と記載されている。
- 5月29日 退院。というのもこの病院は基本的に救急医療病院であり、治療費も割高(と先生が言った)なため、かかりつけの獣医への転院を入院時から推奨されていた。診療報告書とエコーとレントゲン写真の入ったCD-Rも渡してくれた。点滴の針は入ったままがいいでしょう、と針とエリザベスカラーをつけたまま帰宅。シロはぐったりとしている。食事も取ってくれない。下半身はほぼまったく動かない。シロがいるソファの横で寝る。おしっこに関してはそのままソファで垂れ流し状態だったのでペットシーツなどで対応。
- 5月30日 資料を持って近所の獣医に連れて行く。薬をもらい、いろいろ相談。1週間後の血液検査の結果でだいぶ予後が変わるとのことだった。エリザベスカラーも外していいとのこと。しかし点滴の針は万が一に備えて入れたまま。嫌がったら外してくださいとのことだった。そして夜から私が発熱してしまう。猫が倒れて飼い主倒れてどうすんだという話もあるが、限界だった模様。
- 5月31日 シロは相変わらずほとんど食事をとらない。食べるならなにを食べさせてもいいと言われたので、高齢猫用のパウチのウェットフードをあげたらちょっとだけ食べた。おしっこはまだソファ。というかソファからほとんど動かない。水をいっぱい飲んだ。この日私はシロの隣でほぼ完全に寝込み、連絡がつかないというワヤをやる。その上シロの具合も悪かった。妹に「ダメかもしれない」とLINEをしている。そう思いながら翌日は絶対に外せない時間拘束の仕事があるため、覚悟を決める。
- 6月1日 初の長時間外出。帰宅して真っ先にシロの顔を見て安心する。さらにこのとき、左足が動くようになっていた! 動いた! ちょっとだけ安心してさらに打ち合わせに外出(つまり都心に1度出て自宅に戻り、もう1度都心に出た)。そしてこの夜、突然ものすごい食欲(といっても通常よりは少ない)をシロが見せる。
- 6月2日 左足は動くようにはなっている。足を引きずって部屋の中を少しうろうろしはじめる。この日、シロと全然関係ないちょっとしたことで泣いてしまい、自分が予想以上に弱っていることを知る。
- 6月3日 ためしに食後にトイレに連れて行くと、下半身を投げ出した状態ではあるが、そこでちゃんとすることが判明。おまえできるやつだな! 私は完全に不眠状態だったので、シロの隣で寝るのをやめる。とはいえ眠りは浅い。目覚めてはシロの様子を見に行く。
- 6月4日 獣医。麻痺している右足の先端と身体の血液成分がほぼ同じなため、右足にも血が通っており、壊死はなく、全体的な血液数値も大幅に回復。ただし心臓内には別の血栓が留まっており、下半身の麻痺も回復するかどうかわからない。体重も減少。点滴の針は外れた。足を少しリハビリさせてもいいかも、とのこと。つまり予後がそこそこいいということだった。油断せずに行きましょうとの話。次の通院は2週間後。ここでようやく少しだけ安心した。板の間より歩きやすいだろうと購入したラグが到着。結果的にラグは正解で、あちこち動き回るようになる。このへんで尻尾も動き始める。
これが大体発症から10日間の話だ。リハビリは足の屈伸的なものをゆっくりやっていたのだが、シロには非常に嫌がられていた。また薬は当初シリンジで直接口に与えていたのだがこれまた本当に嫌がり、ふと匂い強めの高齢猫用ウェットフードに混ぜたら食べることが判明したので、今までの苦労はなんだったんだ……となった。
- 6月12日 今までずっとトイレに運んでもらっていたシロが突然自分でトイレに行き、ひとりで用を足す。めっちゃビックリする。しかしまだこの頃は食後にトイレに運ぶミッションをしていた。また右足は根元から麻痺ではなく、先端部分(後ろ足の肉球手前の関節より後ろ)だけが麻痺している程度にまで回復。
- 6月13日 突然階段を降り始めるのでビビる。昇るのはできない模様。私が確認した限りではその後1回しか階段降りにはチャレンジしていない。
- 6月16日 獣医で自分でトイレに行きましたと告げたら「エッ?」と聞き返され、ここまでの回復は非常にレア、と言われる。これは本当にうれしかった。途中薬を取りに行く必要はあるが、次の通院は一ヶ月後でいいとのこと。
そして今日で発症から4週間。シロは元気だ。右足は引きずっているけれど、トイレも完全に自分で行くようになった。食事は食べるときも食べないときもあるが、もともとムラっ喰いの猫だったのでそれほど心配はしていない(獣医に相談したら薬は最悪半分飲めればと言われている)。ついでに言うとチキンのパウチは嫌いということがわかった。
治療に関して言えば、これは勝手な判断だが、クリアクターの投与がおそらく明暗をわけたのではないかと思う。治療に関して検索したとき、このクリアクターの投与とその値段に迷いを書いている人がいた。クリアクターは高価な上にリスクも告げられるし、正直私も投与を少しためらった。通常の獣医より割高です、と説明された救急センターで私がクリアクターのみに支払った額は75000円。検索では5万円からそれ以上、という価格が出てきた。ちなみに救急センターには2泊3日の入院でクリアクター代含めて大卒初任給くらいの額を支払った。
生き物と暮らすということは、その死と向き合うということだ。しんどい4週間だったことは間違いなく、あちこちに迷惑をかけまくった。いやこれは現在進行形か。別れへの準備の時間をくれたのかもねと友人に言われて、本当にその通りだと思った。今もきっとその準備期間なのだろう。生き残った猫のうち半分が30日〜60日で死んでしまうというその60日を超えてもいない。もしかしたら1時間後にシロは動かなくなってしまうかもしれない。でもそれは他の猫だって人間だって同じ事だ。
いろんなことをネットで検索した。同じ病気の猫の闘病日記は正直読んでいてつらいものが多かった。読んでよく泣いていた。闘病日記どころか、数日で死んでしまった猫の話もたくさんあった。安楽死の話もあった。4週間前のこの時間シロは緊急入院していた。でもシロは今わたしの隣でのんびりとしている。苦しそうな様子はまったくない。
シロの病気についてちゃんと書いておかないとなあ、と思ったのは私がとにかくネットの記事に絶望したり希望を抱いたりしたからだ。同じ病気になった猫を飼う誰かの助けに少しでもなりますように。そしてネットに闘病日記を書いてくださったどこかの猫飼いさん、本当にありがとうございました。
追記:検索でいらっしゃる方がたくさんいるので、追記しますと、この年の12月までシロは生きました。発症から約半年です。足を引きずっていたのは夏くらいまで(このとき足カバーとして包帯だけではなく、100円ショップで売っている家具用の足カバーを使っていました)。その後は普通に動き回るようになり、最期まで足を引きずることはなく、トイレも自分で行っていました。
ちょうど3ヶ月サボった
3月11日にあげたのが最後だから、ちょうど3ヶ月さぽってしまった。3ヶ月の間になにをしていたかというと、なにしてたかな。4月は久しぶりに宮城にいってきた。それはちょうど熊本の地震のただ中で、2011年に宮城を訪ねたのと同じ季節だった。復興支援でちょっとだけお手伝いしていた団体が終了することになり、それをきっかけに石巻にいってきたのだった。あのときと同じ桜の季節だったよ。そしてひとつ前の記事に登場する宮城の友人の新築のご実家にお邪魔した。彼女の90歳の祖母が「結婚」についてプレッシャーをかけており「急に来るから男でも連れてくるかと思ったのに!」との言葉に一緒にいった女子たちの立場ナシ! でもほんといい旅だった。
5月に引っ越しをした。今まで池袋サンシャインの裏あたりに住んでいたのだが、だいぶ離れて埼玉県境まで50mくらいのギリギリ都内に引っ越した。広さを求めたのは正解だった。すごく快適だ。猫たちも全員連れて行った。
2週間後、引っ越しの片付けもままならぬ中、最長老である猫のシロ16歳が倒れた。心臓病からくる血栓だった。この話、私も検索してだいぶ救われたので、あとでちゃんと書きたいと思う。とりあえず二週間後の今、シロはまあまあ元気である。まあまあだけど。
引っ越し前実は一番心配していたのはシロのことだった。高齢猫の引っ越しとストレスについて書かれていた。だが、シロが死ぬまで引っ越しをしないのかと考えて答えはNOだった。そんなのシロも望まないだろうと。結果的に前の家で私はシロの介護をできなかっただろうし、これでいいのだと思っている。
3月から5月に見た舞台や映画。
3/26 【堺三保 ハリウッド流映画脚本講座 シナリオの構造とは?】
実は私が週1回講師をやっている学校の同僚でもある堺先生なのだが、申し込んだ時点で堺さんが何者なのかもしらなかった。ただお題にシドフィールドの名前があったので興味を持ったのだ。ちょうど前々日にお会いして、名刺交換をして、帰宅してからスケジュール確認して気がついた。そして講義はめちゃくちゃおもしろかった。大人になってあんなに必死にノートをとったことはない気がする。
4/13 【ジャニーズ野球大会】
引っ越しの最中出てきたチケットには1995年のものがありました。楽しかった! 楽しかった! 私の大好きなA.B.C-Z河合さんが試合ではないところで活躍していて、きゅんきゅんしました。
4/20 【滝沢歌舞伎】
友人のお母さまが急に行けなくなって……ということで急遽一度見てみたいと言っていたシナリオライター男子と一緒に行きました。ほんっとに滝沢さんは美しいな。そして今回のゲスト三宅健さんも最高だった。楽しい! なんかすごい! しかないエンタメ舞台って最高だと思う。
5/04 【あそぶ浮世絵 ねこづくし】
横浜そごう美術館でやっていた古今東西の猫を集めた美術展。あのねえもうほんと猫って昔からバカだな! 久々に図録を買ってしまった展示でもありました。
5/24 【寝盗られ宗介】
A.B.C-Z戸塚祥太さん主演のつかこうへい/錦織一清演出舞台。高橋由美子がすごかったよ……。そして男性に向けて正しいのかはわからないけれど、戸塚さんは美しかったです。そろそろつか芝居じゃない戸塚さんを見てみたい。
あとはキンプリを追加で2回くらいと、小劇場いくつか見たかな。小劇場ちゃんと紹介してやれよ!
そんなかんじでしょうか。そろそろちゃんとしていないところをちゃんとしていきたいと思っております。
ある晴れた日に
もうあれから5年も経つのか。もう5年なのかまだ5年なのかもよくわからない。
あの日から約50日後、私は宮城に行った。青空の広がるいい天気の日だった。その時のことを書いた文章を非公開になっていたblogから公開にした。(7)と番外編の間に2013年3月11日の記事も挟まっている。番外編はおたくの神様の話というか、2011年4月の観劇でおきたちょっとした奇跡みたいな話をしている。
後日談としては、相変わらず彼女とは友人で、一昨年秋、ご実家から震災後初めて取れた新米を送っていただいた。昨年秋にも送っていただいた。私の貧弱な舌では震災前に送っていただいていた新米と同じ味なのかどうかはわからない。でも相変わらずうまい米だ。
繋がるような繋がらないような話をしますが、実家がその津波ですべて流された友人が「黒歴史は全部太平洋に流れた!」ってゆって持ちネタにしてたのめっちゃおもしろくてずるかったけど、実際は流れきっておらず、市の写真展示場に昔のコスプレ写真が掲示されてたってのほんとおたくいい話。
— 金巻ともこ (@tomoco) 2015年12月26日
これも後日談のひとつだろう。(公開は本人に許可とってますよ!)
しんどかったことや悲しかったことはあとで笑い話にできるといい。そこには深い悲しみや苦しみがあるけれど、それでも笑えることはとても幸せだ。このTweetの話を笑っていいのかわからない、と言われたことがあるけれど、私は一緒に笑えばいいと思う。そしてそれを思い出話にできることもきっといいことだ。忘れてはならないけれど、忘れたっていいんだ。でもたまに思い出す。当事者じゃない私たちは、心の片隅に置いておいて忘れない。そういうことがあったということを忘れない。
震災の翌日、私はこうTweetした。
「僕たちは元気で、そして自由だ。 困っている友だちを助けるのはあたりまえだよね」というキングダムハーツIIに出てくるセリフが本当に好きで、今意味をかみしめています。元気で自由ではないあなたのために、ひとりひとりの力はわずかですが、なにかできると信じています。希望を捨てないで。
— 金巻ともこ (@tomoco) 2011年3月12日
あのときのこれは今思えば自分自身に向けた言葉だった。もうひとつ、冒頭にも書いたが、震災から2年後の2013年3月11日に書いた文章も公開してある。
どうもあの日のことを思い出すと私の肩には力が入ってしまう。いや文章にだって力が入ってしまう。この記事から3年経っても震災関連の番組は見られない。
今年も3月11日14時46分がやってくる。
時間はあの瞬間からずっと続いている。今も仮設住宅で生活している人たちがいる。3月11日付近だけそのことを語っても仕方ないと憤る人たちもいる。でも語らないより全然いいと思う。祈るだけでは伝わらない思いを伝える努力を忘れないように、と今も思う。忘れないように。私が思うのはそれだけだ。
1月2月に見てきたもの
もうちょっといろいろインプットしたいなー。特に映像系。3月4月の目標としましょう。
追記しておくけど、若手舞台とかジャニーズ舞台は「がんばってるなー」って感動もあるんだけど、舞台としては未完成なのではないかって疑問をずっと抱いている(もちろんそうじゃない舞台もある)。ただそういう見方が間違っているわけではないし、それを見に行くというスタイルが否定されがちなのは、なんかやだなあって。でも完成度とは、って考えると、うーんって。あるいは未完成をわざわざ見に行くのか。でも「がんばってるなー」を見に行く舞台でがんばってない奴はすぐにわかる。一方で視点を変えれば「がんばってる」が伝わってきちゃうのは未熟でもあるし(前述のがんばってない奴とは別ね。そういう奴はそれ以前の問題なので)。実際には舞台の完成なんてありえないのかもしれない。あるいはすべての舞台は完成している、とも言える。完成じゃなくて成功なのかもしんない。成功したか否か。となると今度は成功とはなにかってなる。赤字じゃなきゃ成功かもしれん。難しいね。まあ芸術やエンタテイメントってそんなもんか。
不眠症の話
昨年は不眠症と闘っていた。
寝付きが悪いだけならまだしも、眠ってもとにかく悪夢を見る。そして目覚めると、壁の模様がうねうね動いていて怖い。なんなら叫んで目覚める。汗をびっしょりかいている。ありとあらゆる悪夢を見た。
ある日看護師の友人が家に泊まった。うとうと眠って、悪夢を見て叫んで起きた。友人が驚いて目を覚ました。「病室でも叫んで起きちゃう人とかいない?」って聞いたら「いませんよ」って言われて、ああきっとこれはまずいんだなって思った。
眠れなくなるとなにもできなくなる。眠いのに眠れない。眠ると悪夢を見る。すぐに目が覚める。うとうとゆらゆらしている時間が長くなる。そういう意味では世間一般で言う眠っている時間はすごく長かった。結果なにもできない。少なくとも私はほぼなにもできなかった。
病院に行ったら鬱の気配もあると言われた。確かにずっと死にたかった。結局どうやって改善したのかというと、自分で努力して規則正しい生活はできないと判断し、投薬治療の上で半年ほど週4日間、朝から派遣社員をした。とりあえず半年間遅刻しなかった。必死だった。
規則正しい生活をして、薬を飲んで、まず変化したのは、悪夢を見なくなったことだった。それから連続して眠れるようになった。相変わらず寝付きは悪いけれど、それでもあの頃に比べれば全然マシだ。少し興奮する出来事があると寝付けないのは子供の頃から一緒だ。子供の頃、遠足から帰ってきて興奮して喋り続け眠らないので、父におちょこでウィスキーを飲まされた記憶がある。今思うとだいぶ乱暴だなとは思うが、多分寝付きが悪いのは気質なのだろう。しかし悪夢を見てすぐに目覚めるということは、普段の状態ならほとんどない。それにしてもあの悪夢はなんだったんだろう。子供の頃風邪をひくとよく見ていた夢にも似ていた気がする。
ちょっと大きなお仕事をいただいたタイミングと眠れるようになってきたところで、派遣社員は辞めた。今は週3回4時間だけど新宿で夜アルバイトをしている。これは派遣社員生活以前から週1あるいは週2でやっていたことではあるけれど(そして派遣社員時代もやっていた)、週のおよそ半分、夜ではあっても同じ時間に定期的にどこかに出かけること、そして人と話すことは少なくとも私にとってとても重要だ。夜型ではあるけれど、それだけでなんとなく日々のリズムができてくる。普段は油断すると1日誰とも会話せずに終わったりする上に、性根が自堕落なので、あっという間に生活のリズムが崩れてしまう。
その上で頓服として寝付けないときだけ、睡眠導入剤をたまに飲んでいる。でもその回数もだいぶ減ってきた。悪夢はほとんど見なくなった。
確かに去年の私は、いやたぶん一昨年くらいからすごく自信をなくした状態で、なんかもう本当にダメで、本も読めなかったし、映画も見られなかったし、テレビも見なかったし、知らない人の多い飲み会に行くのは億劫だったし、なんかそういう状態だった。コンサートや舞台はようやっと出かけていたけど、経済的な理由もあって、例年に比べたら1/5もいけてない。趣味の文章はぽつぽつ書いていた。書いていてよかった。年末くらいからだいぶ復活してきている。本も読めるようになった。インプットできるようになった。そしてアウトプットも大丈夫そうになってきた。
たぶんいつだってあの状態に戻ってしまうんだろうなと思う。きっとすごく些細なことで戻るんだろう。そして努力をしなければ、たぶんいつだって戻ってしまうのだ。
少し元気があるなら、全然違う環境に身を置いてみるのはすごくいいと思う。というかすごくよかった。私みたいな仕事の人が全然関係ない仕事をやるのは社会勉強にもなる。普段の生活だと絶対に知り合わない人たちと知り合うことができた。それから通勤というシステムのすばらしさよ!
同時に昨年から学校でノベルズ科の先生をやらせてもらっているのだけど、これもタイミング的にすごくよかったんだと思う。自分の足元を見つめ直す機会になった。えらそうなこと言ってたけど、先生そんな状態だったんです。ほかにもいくつかタイミングに恵まれているなあ、と思える出来事や仕事がいっぱいあった。そしてなにより友だちの存在は大きかった。
昨年はこの10年間で1冊も小説の単行本を出していない1年だった。ノベライズにはタイミングがあるし、不眠症とそれに伴ういろいろとはあまり関係ない気もするけれど、それでも1冊も出していない1年というのはこの10年なかった。正直に言うなら、仕事関係でご迷惑もおかけした。その中お仕事をくださった方たちには感謝しかない。その上で、今は若干改善しているとはいえ、管理のできないフリーランスに仕事をくれるほど、世間は甘くない。今年出せるかどうかもさっぱりわからないし、とりあえずライターとしてのお仕事はいただけているので、今ある仕事にしっかり向き合っていくしかないのだ。
しかし不眠症、舐めない方がいいっすよ。